archive

2019

Yuji Ueno

正義 JUSTICE

2019年3月24日[日]

はないけライブご案内

この度、はないけ界の暴れん坊こと上野雄次氏を迎え新生DEAD END にて第4弾を企画する運びとなりました。

国内外各業界で人気を博しながらも氏に関する評論などが未出の中、無謀にも長めの宣伝、企画意図というスタンスでアーティスト上野雄次について考察してみようと思います。

DEAD END [salt] 金谷幸未

HANAIKE

わたしはあるとき人からきかれた。
「あなたはもしも満州のように花のないところに暮らしたらどうしますか。」と。
わたしは答えた。
「土をいけるでしょう」と。
                 勅使河原蒼風*1著「花伝書」より*2

 上野雄次が『生け花に対して何の関心も知識もなかった』*3、たまたま手にした勅使河原蒼風の花伝書が『心にビンビン響いた』という。この冒頭文を読むと、これまでに見た上野の表現がよりしっくり腑に落ちて思い返される。
 ところで辞書を引くと「はないけ」*4というのは【花をいける】ことで、「いけばな」*5というのは【草木の枝、葉、花などを切り取って、水を入れた花器に挿し、席上の飾りとすること】と少し意味合いが違う。上野がいつも使う「はないけ」というワードは「いけばな」に比べ意味がざっくりとして動詞的側面があるのに対し、後者は具体的な植物、花器、飾られる場所が前提にあるようにも読める。
 15年ほど前、わたしは家人のお稽古ごとの付き合いで数年だけ池坊*6の門下だったことがある。今思えばあれはまさしく「いけばな」だった。例えば万年青(おもと)という植物のいけ方は十枚の葉っぱと赤い実で構成されるが、全ての位置、長さ、向きが完全に決まっている。縁起物として正月などにいけられるそれは年配の女性らに人気だったが、図面通りにやってもいける人により粋にも無粋にもなり面白かった。  それから数年後の2006年頃、上野雄次のライブパフォーマンスを観ることになる。隅田川沿いのマンションの一角に展開するギャラリーMAKI*7で初めて「はないけ」をみたのだった。


PUNKS NOT DEAD

 日本の音楽雑誌の重鎮である「ロッキング・オン」*8創刊メンバー橘川幸夫によればロックとは《アプリオリに与えられた日常に対しての脱出行動である。》《けれどそのロックもやがて体制下し、社会に認知されていく》《ロックは音楽からはみ出すべきだ、と思った。音楽という狭い業界だけで解決出来ることは何もない。豆腐屋は豆腐を作ることでロックが出来るはずだし、教師は授業をすることでロックができるはずだ》と。橘川氏の意見に同意するならば上野雄次はまさしくロックスターである。もっと言えばパンクロッカーなのだ。橘川がパンクが出現しだした頃を振り返る。《かつてのロックスターを見るようにして、ジョニー・ロットン*9を見てはいけないのだ、と思った。多くの音楽ファンにとって、技術志向のそれまでの音楽シーンの中で、パンクのストレートな訴えは衝撃的だったのだろうが、僕にとっては、それは、音楽の内部の出来事ではなくて、これまでのロックというフレームを超えようとするものとしての衝撃であった。》*10
 ところで1973年生まれ田舎育ちのわたしがぼんやりとパンクを知り、憧れ出すのが中学生の頃*11で、昭和と平成の境目だった。当然異国のパンクムーブメントなぞは知らず、パンクス気取りの同世代の男子らが集う地元のささやかなライブハウスで慎ましい衝撃を受けるのが精一杯だった。
 その20年後、わたしは人で埋まった暗く狭いマンションの一室で不穏な空気にまみれながら上野雄次のはないけを目撃。そこで受けた真の衝撃と「今度は間に合った」と安堵したことを忘れない。その後もマルコム・マクラーレンならぬ坂巻喜美子の企画でパンクロッカー上野雄次に何度も痺れたのだった。

 ―暗転―

HANAIKE LIVE

 上野雄次のはないけライブは恐ろしい。*12
いつ血を見るのかとハラハラする。かすり傷、内出血くらいは本人に実際おこっているのかもしれない。そういうのではなく、血しぶき、血の海といった大量の血を連想してしまう。
 ライブ中に使う道具が誘発するのか。生け花用の鋏以外に、鉈、斧、土木用木槌、大型ドリル、バーナー、ロープなどかつての花生け教室では見かけなかった道具が並ぶ。衣装はいつも上下黒。パーカーを頭から被り不審者を連想する出で立ちで現れ、それらゴツい道具を駆使しながら破壊と創造を行き来する。自身の身体も酷使する。宙づりになったり逆さになったり。美しく剃り上げた頭部を真っ赤に染めて息遣いが荒くなる。本人曰く『非日常、劇的な行為』を通さないと現れない景色に立ち会うべく徹底的にいまを壊す。もちろん観者のいまも壊される。
破壊の向こう側を見届ける覚悟はあるのかと耳元で囁かれ、恐怖と興奮と恍惚と絶望を一度に発作し、ようようイエスの返事をしようと振り向けばすでに氏はおらず、出来上がりつつあった非日常をまだ足りないとさらに叩きこわすことに集中している。そこで生じる激しいエネルギーは創造へと昇華されるはずだが、まごまごしているとレーザービームにあたってしまう。ライブ中に血を流すのは迂闊な観者の方なのだ。
 そして忘れてならないのは上野が対峙しているのは植物=生命である。ここで再び勅使河原蒼風のことばを引く。


花は折られると同時に、根から離れ、大きな、正しい、自然の統一を失う。生命を不自然にされ、美しい安定を失う。枝のたどっていた方向も、花の陽(ひ)に向かっていた表情も、ひっくり返され、破壊される。〜中略〜この、いちど自然から離れて死んだ花の美しさを、再び生かすだけでなく、自然にあったときより、もっともっと自分の親しみのある美しさに置こうとするところから出発し研究したのが、日本のいけばなの精神なのである。


 はないけは生命のやりとりでもある。バーチャルでプラスチックな昨今〜斧を持って裂き砕けるが如し*13〜破壊されたあと横たわるのは臍の緒もまだ繋がっている生々しいリアル。生まれたて血まみれのそれを抱かされ呆然と立ちすくむわたし。上野雄次のはないけライブは容赦がないのだ。

―暗転―


HANAIKE FOR DAYS OF ‘KE’

 ハレとケ*14とは柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつであるが、フランスの社会学者エミール・デュルケームの聖俗二元論*15などを取り上げるまでもなく世界各地に存在する祭りを見れば、我々人間の生活に共通して機能する装置といえよう。
 上野自身によるライブパフォーマンスに関する分析によれば〈ハレの日〉に位置付けられるがため『そういう行為というのはいつでも許される訳ではない』*16という。『ハレの日というのは社会の枠組全てを取っ払って今生きていることをシンプルに感じ、生に感謝し、自然に敬意をはらう日、非常に本質的な生の時間であり空間』で、そこでは『限界に挑戦するとか、生きているギリギリを見つめていく』*17行為がなされるのだが、それがオーガズムの瞬間の代替行為であるとし、『その瞬間ばかり日常に持ち込んでいたら、命を縮めるしか無くなってくる。』 という。この場合の〈オーガズム〉は性的興奮の最高潮であるとともに超越的体験でもある得ると促すのはフランスの哲学者ジョルジュ・バタイユで「性愛の閃光の中で生じる瞬間の永遠性の感覚」と表現している。*18
 ところで、かつてアニメで人気だった聡明でとんちのきく「一休さん」こと一休宗純*19は〈風狂〉の僧として破戒行為を繰り返した。その一休について論じた日本の宗教学者町田宗凰によれば「超越的体験とは、真剣な祈りによる神との合一体験、深い瞑想に入ったときの没我体験、祭りの狂乱が呼び起こす恍惚感のことである。」*20と説明し、一休の侵したタブーの一つ女性との性的狂宴は「バタイユのいう〈祝祭〉」と同様で「常軌を逸した行為を通じて」、「永遠の〈いのち〉の鼓動に触れようとしたのである」と分析する。そしてそれは宗教の本質に立ち返ると解く。
 上野にとってハレの日のライブが生命のやりとりのように感じるのは、町田の言葉を借りれば、彼自身が極限状態に自分を押しやり「無限の生への衝動であるエロス*21と、永遠の死への衝動であるタナトスとの接点に存在している」からなのではないか。そうだとするとそれは命を縮めてしまっても不思議ではない。
 それに対し、「ケの日」のはないけ*22の舞台である〈日常〉を捉える上野の視線は一転し穏やかである。

『日常というのは色々な秩序があってお互いに気持ちや行為やバイブレーションの波長をあわせて生きている。(中略)そこに寄り添うような情緒の中で輝きのある美しさを引きだしていく。それが「ケ」の日のはないけの有り様だと思います。』*23



OTOSHIMAE

 上野雄次のはないけはハレとケの二面性を含んでおり、そこに情動と静謐のスパイラルの具現化をみる。その中心を一貫している「筋」の様なもの、あれは何だろうか。
 上野はケのはないけであっても『ただしなやかさがあるだけでは成立しない。そういう行為をしてしまったことに対する落とし前みたいなものをしっかりつけなければいけない。』*24という。つまり上野のいうはないけとは先に述べた蒼風の「生命を不自然にされ、美しい安定を失う」行為に対する落とし前をどうつけるかということでもあるのだろう。
 上野が発信するSNSは活動の告知が多いが、ある時珍しく本人による長文を載せていたのでとても気になった。

『花を生けるとは
植物や花に対して根本的になんらプラスになっていないということを
お伝えしたいです』*25


という冒頭から始まり『では誰がなんのために行なっている行為なのか?』と自問していく。人間が人間のために行う行為ゆえ幻想やセンチメンタリズムを抱き、花に対して「植物のためになる」、「花が喜ぶ」などと言ってしまうと分析し、それが悪いことなのかと問われれば、決してそうではないという。何故なら、人間が抱える『あらゆるものを擬人化してしまう』「根本的癖のような意識」に忠実ゆえと解く。その「癖」は古くは神々の存在から始まり、『昨今日本では、「ゆるキャラ」なる存在が世間を賑わし』、もっと言えば最も身近な存在=自分自身を投影してしまうのだと結び、冒頭部分へと回帰する。擬人化意識は『対象に対する理解を深め関心に繋がる』無意識の営みであり、『もっとも高度で美しい物語を紡ぎ出す』可能性を示唆するも、反面『この擬人化意識は植物の正しい生態バランスや本来の存在目的に対しての興味を希薄にしていった』と危惧をほのめかす。
『擬人化意識』について無批判であっていいのかと問う文章を読みながら上野の破壊的なライブを思い返していたときに先の町田宗凰編著作に出会い、バタイユの〈供犠〉の思想を知る。
バタイユによれば《供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則》の中で《収穫の初物を供物として献上したり、一頭の家畜を供犠に捧げたりするのは、事物たちの世界から植物や動物を引き戻すためであり、そして同時に農耕者や牧畜家を引き戻すためである。》*26と定義する。町田はこの思想を用いてアイヌの熊祭り(イオマンテ)*27の思想的背景を論考した。
供犠と聞いて日本国内で思い出すのは諏訪大社上社の御頭祭*28で鹿の首を七十五頭お供えする祭がある。現代は剥製を代替品にしているが、その昔は生首だったことを想像すると近代的感覚としてはギョッとしないでもない。しかしもっと遡れば人間を宗教的に殺戮し生贄としていた時代もあり、神霊との距離が遠くなってしまった現代人のマインドで安易な感想を述べるのはあまり意味がない。
バタイユに戻ろう。《供犠の原則は破壊であるが、そしてときには全的に破壊するにまで至ることもあるけれども(たとえば全燔祭*29においてのように)、供犠が挙行しようと望む破壊は無化してしまうことではないのである〜中略〜つまり生贄を有用性の世界から引き剥がして、知的な理解を絶するような気まぐれの世界へと戻すのである。》町田がさらに分かりやすく噛み砕いた解説をそのまま引用すると《バタイユは宗教の核心には、生け贄を儀礼的に屠殺する〈供犠〉の思想があるとする。本来は大自然の中で何の拘束も受けずに生きているはずの動植物が、人間の手によって〈事物化〉されたものを市場原理である回路から外すためには、能うかぎり非生産的な形で〈消尽〉しなくてはならない。惜しみなき破壊である〈消尽〉を通じてこそ、〈事物化〉されたモノから、存在の最内奥に潜む〈至高性〉が回復してくるというのである。この場合の〈至高性〉というのは単に崇高なる存在という意味ではなく、一切が何の境界線もなく連続しあっている宇宙的な混沌の世界と理解したほうがよい。そこには理知をはるかに超えた生命そのものの無窮性がある。》*30
「擬人化」は〈事物化〉に含まれる。本来精霊としてありえたはずのものたちを境界線の中に押しやり、理知的に解釈することで〈至高性〉を剥奪してしまう。上野のライブはあくまで生命体同志、同じ地点に並び立とうとする態度を示す。そこにチャレンジしないと本人の内奥性をも失ってしまうことになる。バタイユのいう《失われた内奥性の茫漠たる領界へと戻してやらねばならぬ》ために自らも「引き戻す」必要があるのだ。

『感動は、多くの人が常識だと思っていることを逸脱して超えたところにあります。その逸脱するにも、すべての要素を抱え込んだ上でそれを超えなければ、ただ別なモノとして排 除される程度のものになってしまう。受け入れざるを得ないものをちゃんと抱え込んでいるからこそ、表現も鮮やかになるんです。』*31

 上野雄次のはないけに見られる共通した「筋」の様なものとは、いのちを扱う落とし前の精神であり、いのちそのものの「業」が滲み出て見えるのは、彼が修行僧のごとくマントラを唱えながら至高なる連続性を希求するからだろう。それはもちろんあなたにも連続しているはずだ。

 さて。デッドエンドで上野雄次はどんな〈はないけ〉を見せてくれるのだろうか。情動のはないけか、静謐のはないけか、はたまた別のかたち*32の落とし前なのか。また本人が命名した今回のライブタイトル「正義JUSTIS」にも注目したい。
乞うご期待あれ。

2019年2月


毎度ながながと読んでいただきありがとうございます。
拙文ではありますが、panoramaさんのインタビューがなければもっとずっと困難で文章化できたかどうか怪しいものです。「ことば」というものは積み重なって少しずつ道ができて先へ進んで行くものなのだなとつくづく思いました。
峯岸弓子様、竹内典子様に謝辞を申し上げます。本当にありがとうございました。

ライブ終了後、上野雄次のインタビューを予定しています。こちらアーカイヴにもアップする予定です。お楽しみに〜