archive

2019

Yuji Ueno 上野雄次

正義 JUSTICE

2019年3月24日[sun]15:00-

DEAD ENDでは企画終了後、言葉による再構築を試みています。メインの執筆は井手日出志ですが、御高覧いただいた方々からの感想なども掲載しています。
今回の舞台は360度パノラマだったので、縦横無尽に動くであろう上野氏に合わせて観客の方々にも自由に動きながら観ていただきました。撮影なども制限をかけず、ネット上で共有しようとあらかじめ提案しました。

note01

『上野雄次の正義の話をしよう』

2019年3月24日春の柔らかな日差しが降り注ぎ山桜の咲く穏やかな山の中でDEAD END [salt]企画『上野雄次「正義JUSTICE」はないけライブ』が行われた。
観客、スタッフ総勢72名が見守る中、上野さんは山の中を駆け回り圧倒的パフォーマンスを見せた。その強烈な表現の記録は上野さんが信頼を寄せる写真家や映像作家の方々が残してくれている。ネットやユーチューブでも見ることが出来る。(*上記参照)山火事にならなくてホント良かった!という個人的な安堵はさておき、あのクレイジーで濃密な時間に対して、主催したDEAD END [salt]は「言葉」を使っていったい何が残せるのかとダラダラ考え続け、気付けば半年以上も時間が経っていた。そしてある日ふと、以前話題になって読んだ一冊の本のことを思い出した。その本のタイトルもまた「正義」という言葉が使われている。当時の社会情勢を「正義」というキーワードを使って論じる哲学書だったような気がするが、具体的には何も覚えていない。早速図書館で借りてきてパラパラと読み返してみる。タイトル以外は年代も国籍も表現方法も全く違うアプローチだが、それら二つを比較することであの日のことを掘り下げられそうな気がする。半年寝かせたあれやこれやを言語化するためのお供として十年近く前にもてはやされたその本を借用しながら、あの山で目にした出来事について語っていくことにする。
 では上野雄次の「正義」の話をしよう。

『 これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学(JUSTICE What's the Right Thing to Do?) 』は著者のマイケル・サンデルがハーバード大学で三十年にわたって教えている人気講義を一冊にまとめたもので、日本では2010年に翻訳が出版された。(*奥澤忍訳|早川書房2015年5月初版)また出版の前後にNHKでこの講義の模様が放映されたこともあって何かと話題になり、いろいろなところで目にするようになった。(*米公共放送局制作の番組を邦題「ハーバード白熱教室」としてNHK教育テレビで2010年4〜6月放送) その当時読んだ人も結構いるのではないだろうか。現代社会において絶対的正義はないという前提のもとに、それでもなお決断をせまられる社会的な諸問題ーあの当時一番ホットなサブジェクトの金融危機、経済格差、テロ、戦後補償などの問題を非常に具体的な例を提示しつつ、美徳を軸にアリストテレス、ロック、カント、ベンサムなどの哲学者の考えを吟味しながら思索していく。『意見が一致しない道徳的問題についても積極的に議論すべき』であり、議論によって浮き上がる『ジレンマに悩む中で新しいアイデアが生まれる』と主張し、本の最後は 『道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけでない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。』という文章で締めくくられている。本書が日本で出版されてから9年、この講義がハーバード大学で一万四千人を超す履修者数を記録したはずのアメリカではポピュリズムの台頭とともに2017年トランプ政権が誕生し、一方日本では東北大震災の翌2012年に安倍政権が再び誕生しそれ以降今も続いている。この現状を反映してかどうかはわからないが2019年上野雄次は「正義」と銘打ったパフォーマンスをDEAD END [salt]で行った。

 上野自身の正義に対するスタンスははっきりしている。舞台となる山を下見に来た時に、今回のタイトルの正義について訊ねたところ「正義という基準は基準としてたいした事がない。」とバッサリと一途両断つつ、だからこそその言葉をタイトルに据え置き、そしていつもの高い声で「酷いことしちゃおっかな」とニヤッと笑う。そのいたずらな笑みは正義の名のもとに世界の至る所で行われる蛮行や正義という言葉のもつ欺瞞に対して、個人でケンカを吹っ掛けようとしている様に思われた。
マイケル・サンデルが高度消費社会に暮らす我々の正義を定義する困難を自覚しつつ、なお諦めずに言葉で模索するのに対して、上野は己の肉体を酷使することによって軽々と言葉を超えていく。かつその過剰な行為の中に様々な記号を散りばめることで鑑賞者との距離を保ちつつギリギリのところで表現として成立させていく。パフォーマンス冒頭に防護服、防塵マスクを着用し、「きけん立ち入り禁止」の黄色いテープで山の斜面全体に結界を張り上野ワールドに観客を囲い込むというあたりは象徴的に現れている。東北大震災を経験した者にとってはあからさまに福島の原発を意識させるものであり、実際、震災以降の上野のはないけソロライブにはいつも登場する欠かせないアイテムのようで、毎回防護服を着続ける上野雄次の姿勢には原発に対する強い思いがみてとれる。それは「正義」というタイトルとも密にリンクしいると思われるがしかし何か具体的な批判めいた物語やジャッジメント無しに、ただ山の急な斜面を障害物をものともせず突き進む肉体、もしくは「上野雄次」という存在自体に徐々にフォーカスさせていく。観客が取り囲む広場に備えられた大量の真っ赤なバラにスプレーで真っ黒になるまで吹き付ける。そしてその有機溶剤の臭いを漂わせたベトベトの真っ黒いバラを文字通り鬼気迫る勢いで叩き潰す姿は、赤から黒という視覚的イメージ以上に普段は美しく活けることに心血を注いでいる花道家上野雄次としての覚悟と矜持をはっきりと見せつける。しかしどんどん正義から遠ざかっていく。
その後も上野の肉体はより過激に躍動してゆく。高さ7、8メートルはあろうかという大木にしがみつき命綱無しに時折うめき声を発し時間をかけて登っていく姿は、果たして無事登りきる事ができるのか見ているこちらがドキドキする命がけのきわどい行為に思えた。(*光を求め斜めに伸びるその大木はとっかかりになるような枝がほとんどない)実際は無事テッペンまで登りきりロープを結わいつけることが出来たのだが、一切のリハーサルなしのぶっつけ本番なのを知っている者としては、もし登れなかったらどうするつもりだったのかが気になり、後日尋ねたところ「多分登れるだろうと思った。でももし登れなかったとしても限界ギリギリの姿を見せることが出来れば、それは観客に伝わる。」とのことだった。上野雄次のはないけライブは事前準備もしているし、勿論大まかな構想もあるはずで当然タイトルの「正義JUSTICE」も重要なひとつの要素ではあろうが、一番大切なことは観客を圧倒するパフォーマンスであり、もっと言うと空間に肉体がスパークする瞬間を観客に見せつけることであるように思う。もしそうであるなら観客は視覚による理解を拒否し、時間軸を取っ払い、丸ごと全てを記憶するしかないのだ。ゆえに最後一瞬にして燃やされた宙吊りの防護服の光景にカタルシスを得て感情を揺さぶられるのだろう。(*脱いだ防護服に前述の黒いバラや枯れ葉などを詰め込み、灯油を振りかけたヒトガタに見えるそれを大木と結界の端を結んだロープに吊るし火をつけた。)個人的には大量のスプレーや灯油を撒き散らしているにもかかわらず何故か山が浄化されたような、御払いをしてもらったような不思議な気分になった。このように改めて文章に起こしてみると、防護服の火炙りは上野雄次による「正義」という言葉の処刑のようにも見える。そして、逆説的だがその「正義」を処刑することこそが上野雄次の正義であるようにも思える。正義という言葉のもつ強さに個人で対峙するのは困難で勇気を伴うことだ思う。その困難を自覚しつつ繰り返し正義を思索するマイケル・サンデルと、肉体を酷使して正義を処刑する上野雄次のどちらも、世界を絶望せずに、ひたすら、前へ、前へ、と進んでいく力強い姿を見せてくれる。その上野の姿を目撃した我々もまたマイケルの授業を受けた学生と同様、時間をかけ個々の正義を緩やかに変容させていくのであろう。

今回『上野雄次の「正義」の話をしよう』ということで書いてきましたが、当の上野さんは、あの日の出来事をつらつらと考え続けるコチラをよそに一切後ろを振り返らず精力的に活動し続け光速の勢いで突き進んでいる。今日も遥か彼方のどこかで花を活け、強烈なパフォーマンスを見せつけ、そして去っていくのだろう。上野さんは種を蒔く人なのだ。そして僕はその蒔かれた種を牛の如く何度も反芻しノソノソと前進していくのだ。上野さんがDEAD END [salt]で一体どんな種を蒔いたのかについて考え文章に起し、今日も山に入り除伐し整えて次に種を蒔く人を待つ事をとりあえずの僕の正義としておしまいにしたいと思います。
最後に、ずっと手入れされずに荒れ放題だった山を譲り受け、一年近くかけて整備してきたなかで沢山の方々の好意と協力をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。皆様がいなければパンクでクレイジーな上野さんの企画(と言っても、もう半年以上も前の事ですが…)を行うことが出来ませんでした。
感謝、感謝、です。

続きは次回のDEAD END [salt]で。

井手日出志(美術家)

note02

susumu_haiku

note03

上野雄次さんの花いけパフォーマンスをはじめて見たのは、もう12年も前になる。
詩仲間の生野毅さんがライフワークにしているライブがあるというので「それはぜひ行かねば」と訪れた。
それは同時に、ギャラリーマキとわたしとの劇的な出会いでもあった。
徹底的な破壊、それはすなわち、鮮やかな創造。
なんとなく、80%で動いている世の中で、120%で走っている人間はバカに見える。いやおうなく虚無を抱きしめざるをえなくなる。
そんななか、上野さんのライブは、120%どころの話ではなかった。
「あれは、もう神事ね」と、ぽつりと坂巻さんの鋭い言葉。
重力と自分の重みとの精緻な設計、空間の構図、午後の光の位置の把握。
すべてが宇宙の運行に倣っていた。
ピタリと決まる美の一瞬は、脳裏から離れない。
DEAD END オーナーの金谷幸未さんのパンフレットには、
「縁あって、山と家を譲り受けて」とある。
山と家?
ギャラリーマキがクローズドになって、それゆえに、それぞれ、さまざま創造力の渦が巻いていた頃、金谷さんとお互いアートスペースをつくろうということを漠然と話していた。
彼女は、当時のアトリエからはじめて、今回の劇的な展開。
(わたしは、何も出来ず、その当該の家の屋根が今年崩れ落ちた。)
それでも、
円環は閉じる。
小さな小さなパンフレットも、「ニクの日ファンディングで」とある。
当日は、お手伝いの子どもたちが沢山いる。
この空き地をつくるのも、いったいどれだけ大変だったことか。
すべてが手作りだった。そのひとつひとつが神事だった。
帰り道、「すっごい小さな、すっごい大きな宝物を見てしまった」とわたしが言うと、すかさず、「『灰とダイヤモンド』ね」と、またまた、さらりと坂巻さん。
ほとんど何も語らず、しかしすべてを見抜いている人がいてくれている。
やっぱり変わらず皆の創造力の起爆剤になってくれている。
うれしかった。

今村純子さま(哲学/芸術批評)

note04

marumo_FB

2019年3月24日 丸茂正裕さま(ワインスタンド_LuLu_店主)

note05

nakashima_FB

2019年3月25日 中島健太郎さま

note06

時間をかけて遠くをみること


上野雄次企画の話が出始めたのは2017年7月頃で、同年12月にやった先間講義(*1)企画が出たのとほぼ同時期だったと記憶する。
デッドエンドでは各企画終了後に言語化してアーカイブに残す作業を課している。自身の個展発表などの経験から作り手にとって展覧会といういうのは通過点にすぎないはずだがある種のお祭りムードも漂うのは否めない。準備には当然労力をかけるのに終わればやりっぱなしの発表形態になんだかずっとモヤモヤがあった。(メジャーシーンでは評論や画集などのアーカイブがしっかり残るがマイナーだからと言って行った行為に対して検証作業をしないのは怠慢なのではないか、云々)アートスペースとしてDEAD ENDを立ち上げた当初はぼんやりとなんかちょっと違うアプローチを取りたいなと思っていた。会期終了後、企画を振り返ることに力を注ぐことで独自の可能性や展望を探れるのではという期待もあった。しかし実際やってみると手間暇が予想以上にかかり、えらいことに手を出してしまったと青くなった。
とはいえ回り出した車輪は止まることなく前述の先間氏の講義企画が始まる。そして何というか、とても勇気を得たのだった。
内容はアーカイブ(*2)に詳しいのでかいつまみたいのだが、先間氏の視点や語り口が独特すぎて手に余る。はっきり言えるのはただの資料的・学習的な「美術史」ではなく、狂人的なデータ解析に基づく先間的美術史だった。これまでの美術が纏ってきたイデオロギーや宗教などを取っ払って「みる」という一点に先間氏が絞り込んだとき、途端にそれらは生々しい人間の欲望として露呈される。そして「みる」は「みえるもの」として定着(現前化)したいという希求に直結していて、その貪欲さは今日に至る表現方法のバリエーションが示す。それらはまとめて「美術」というラベルが貼られているわけだが、その根底にある激しい欲望は脈々と過去から手渡されているし、この先へと繋がっていく類のものなのだろうと示唆していた。(なにせ講義の始まりはビックバンだった!)
衝撃的な美術の長い物語は、果たしてお前は途中走者足り得るのか?という緊張感を突きつけると同時に、昨日今日でわかるようなことはどうやら大した事ではなさそうだとも思えた。何を手渡すのかはまた問題だが、それは豊かなものでなければ途中でゴミと化して地球を汚す。そうならないためには時間がかかるし、ある種のスピード感は事を失速させる。
そういうわけで前置きが長くなったが上野氏は早々にデッドエンドに興味を示してくれていたものの、ではすぐやりましょうという訳にはいかず企画は長きにわたり温められ、スーパー忙しい上野氏はずっと待っていてくれた。
そんな中2018年明けてすぐ、驚愕の移転話が急浮上。面白い間取りの二階建て一軒家と急斜面を含む山林を譲り受ける事になり、すったもんだの大騒動があったがその話はまた後日。ともかく私たちは一軒家の少し離れたところにある土地を「山」と呼び、親密な関係を築く努力を始めた。DEAD END はDEAD END [salt]へとバージョンアップし、2019年3月に4回目の企画(あるいは杮落とし)に上野雄次を迎えた。そうして本企画は旧スペース8畳間の室内から4568平方メートルの「山」に舞台が大幅に変更した。上野氏には心置き無く暴れていただいた。
それもこれも全部たくさんのご協力あってのこと。
物件の御縁を授けてくれた元所有者ファミリー、山の整備・管理アドバイスなど尽力してくれた猛者たち、真夏の引越しに手を貸してくれた友人たち、当日御高覧いただいた方々、ボランティアスタッフのみなさま、それから新しくなったDEAD END [salt]に祝福を手向けていただいた全ての方に深謝いたします。そしてこれからもご愛顧のほど何卒よろしくお願いします。
そろそろお気づきかと存じますが、今のところDEAD END [salt]は井手と金谷二人で回しております。大きな容れ物の中に浮かぶ小舟(あるいは泥舟)に乗っかって気持ちだけは彼方へと、できれば件のエコな途中走者として。推進力はみなさまの愛です。どうかよろしくお願いします。

こちらでは随時スタッフ募集中です。特に執筆当番!Welcome! another lunguage!!それから、2020年現在も未着手ですが家屋内の6畳間に室内スペースも改装予定。今のところ「窓から入る」というアイデアだけがポツンとあります。興味のある方は手を貸してください。

(*1)
2017年12月3日先間康博講義「写真家が解体する美術史」ここ数年美術大学で教えている写真の講義をDEAD ENDバージョンで企画.現在はギャラリーCAPTION(岐阜)でシリーズ継続中.
(*2)

HPアーカイブにて掲載中.紙面をご希望の方はご用命ください.執筆当番は井手日出志

金谷幸未(DEAD END [salt]代表)

2019年発行したものに加筆